le Murmure de Juma☆Jumaのつぶやき

2018年1月から青年海外協力隊のコミュニティ開発隊員として、西アフリカのセネガルに来ました。日々の生活や活動を通して思ったことをつぶやきます。セネガルで過ごす日々にどんな出会いが待っているのか。楽しいこと辛いこと歯痒いこと。これからの2年を通して、自分の心がどんな風に変わっていくのか。大きな挑戦への小さな歩みを記すためのブログです。

断水が教えてくれたこと。

久々の更新はジョフィオールの水事情。

 

実はここ2週間ほど、
ジョフィオール近辺の町、村は水不足に悩まされています。

 

この記事を書いているいまは、
回復の兆しが見えてきた頃。

 

水不足真っ只中のときは、
水の確保を一番の優先事項にしたので
ブログを更新しようなんて考えもしませんでした。

 

どのくらい水不足だったかというと、

2週間、自宅の水道からは1滴も水が出ませんでした。

 

ジョフィオールは
セネガルの数ある任地のなかでも
トップを争う断水任地です。

 

去年のいまごろ、
わたしがジョフィオールに来た頃は

 

昼間14時~17時、
夜20時~5時

 

これが水道から水が出る目安の時間でした。

 

が、昨年9月頃から昼間は水がでなくなり、
夜もどんどん遅くなりました。

 

ここ半年は平均して

 

0時~5時

 

これが水が出る時間帯でした。

 

だからこの時間になると
家にある空きボトルに水をためます。

 

日によっては

深夜2時、3時にならないとでないときもあるので、

常に3日分くらいの水は貯蓄しています。


が、2週間分はさすがに無理です。

 

でも初めの頃は
お金で解決できると思っていました。


なので断水5日目くらいに
ジョフィオールの町にある水屋さんに
大量の空きボトルをもって
水を買いに行きました。

 

が、水がでないから水が売れないと。

 

そりゃそうだ。

 

なけなしのボトル3本を分けてもらいましたが、全然足りません。

 

なんとか隣町の水屋さんで
数日分の水をゲット。

 

土地の高低差のせいか
水が出る家と出ない家があるようで、

その後は知り合いのセネガル人に頼んで
深夜に水を汲んでもらい今日まで凌いでいました。

 

その間、村の人はというと、
生活水を水道水から井戸水に切り替えていました。

 

いつもは料理には井戸水は使わないという人も、
この時は井戸水生活です。

 

みんなが井戸を使うから、
井戸の水かさが減って、水はまっ茶っ茶に。

 

少しでもきれいな水を求めて、
遠くの畑の井戸に水を汲みに行く人も少なくありません。

 

この水不足、
ニュースにもなったようで、
セネガルの人も困っています。

 

でも彼らは朝起きて仕事をして、
ごはんを食べて、アタヤ(紅茶)を飲んで、
また仕事をして帰宅、
家畜の世話をする。

 

そんな日常を変わりなく生きています。

 

ふと

自分の脆さを感じて怖くなりました。


井戸水をろ過して煮沸しなければ飲むことができない私。

 

まっ茶色の井戸水で水浴びするのが耐えられない私。

 

遠くの村に行って水がなくなって、井戸水
を飲まなきゃいけないのが怖くて、なかなか足が伸びない私。

 

『水道から水がでない』

 

そのたったひとつの出来事で

私の日常生活は崩れました。

 

日本という
誰もが清潔だと認める国で育った私。

 

セネガルでは
誰よりも適応能力が低い私。

 

おそらく
この水不足がこれ以上深刻化して
井戸水生活を強いられたとき
一番にお腹を壊すのは私。

 

考えれば考えるほど
自分の立ち位置が分からなくなります。

 

『飲み水や料理は消毒したものを』
『きちんと手洗いをしましょう』

 

と啓発活動をしたとして、

 

セネガルの人が
きちんと消毒した水しか飲まなくなって、
手洗いをこまめにするようになって、

 

もしも、

もしも同じような状況が起きたとき

 

私のように
うまく適応できない人が増えるんじゃないか。

 

そんなことを思ってしまいました。

 

その土地には
その土地に合った身の守り方がある。

 

当たり前だけど
この断水で痛感した出来事です。

 

だからといって
啓発活動をやめるということではありません。

 

特に小さな子どもにとっては
清潔な水で救える命もあるから。

 

ただ
ここは日本じゃないんだってこと、

まったく違う環境なんだってことを
ちゃんと認識して、


色んなことのバランスと
色んなことの優先順位を考えていかなきゃいけない。

 

そう考えさせられました。

 

それはいまの私には難しくて
答えはすぐに出せません。

 

まだまだこの土地のこと
知らないことがたくさんあるから。

 

だからここに住む人と一緒に
考えていかなきゃいけない。

 

10Lの清潔な水が手に入ったとき、
まずはその水を何に使うべきか。

 

20Lに増えたとき、
次は何に使うべきか。

 

30Lになったらどうするのか。

 

こうゆう出来事を
住民と一緒に体験して
話し合うために
協力隊がいるんだな。

 

そんな風に思いました。

 

断水で学んだことを活かして
今日からまた頑張ろっと♪

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📷夜中に水が出ると、この1本10Lの空きボトルにひたすら水をためます。水を溜め終わるとひと安心、蚊帳のなかで眠りにつきます。

家庭訪問始めました。

地元のラジオ局の放送を終え、
12月の中頃から年末にかけて
ついに共済保険(ミュチュエル)の家庭訪問を実施しました。

 

各保健ポストには、

 

ルレ

 

と呼ばれる地域の保健員さんがいます。

 

医師や看護師ではないけれど、
子どもたちの身体測定や予防接種をしたり、
保健に関わる啓発活動をする女性たちです。

 

今回はフィムラの保健ポストのルレさんたちと一緒に家庭訪問をしました。

 

ポスト長から

 

ルレ一人につき、必ず10軒は訪問すること!

 

という指示を出してもらい、

私が各ルレさんとチームを組んで家庭訪問をしました。

 

4人のルレさんと計6日間、
家庭訪問を続けました。

 

4人中3人は今回の活動をやるまで
共済保険のことをほとんど知りませんでした。

 

家庭訪問を始める前に
共済会の会長から仕組みを説明してもらう時間を設け、

実際の家庭訪問の際には
私の作った資料も活用しました。

 

資料では、
共済保険の加入者と非加入者で
治療費にどれだけの差がでるのかを
具体的な金額で示しました。

 

そう、前回の記事に書いた資料です。

 

家庭訪問を始める前の私は正直いって、
加入してくれる人はほんのわずかだろうと思っていました。

 

でも、それでもいいと思っていました。

 

一方的な情報発信のラジオからステップアップして、
目の前にいる人に面と向かって情報提供すること、
そして質問や意見があればその場でちゃんと受け止めるということ、

 

私たちの考えを伝え、相手の考えを聞くこと

 

つまり情報共有です。

 

家庭訪問をする上で
それが一番大切だと思っていたし、
いまもそう思っています。

 

だから、

「会費が高いから入りたくない」とか、
「病院いかないから要らない」とか

そうゆう意見を受け止めて

彼らがなんでそう考えるのか。

 

それを探るのが家庭訪問のメインだと思っていました。

 

ところがいざ家庭訪問を始めると
みんな興味津々。

 

もちろん全員じゃないけれど、
たくさんの人が一生懸命ルレさんたちの説明を聞いて、
質問したり、治療費で困った経験などを語っていました。


共済保健にはいるためには
3つのステップがあります。

 

①一家庭に1冊、1000Fで共済会の手帳を買う
②手帳の中に共済会に登録する家族の情報を記載し顔写真を貼る(一つの手帳で16人まで登録可能)
③登録者一人につき年間3500Fの会費を納める

 

今回の家庭では、

 

①の手帳をその場で購入すれば
②の顔写真をその場で撮影する

 

という特典をつけました。 

 

その特典の効果もあってか

なんと6日間で61冊、
平均して一日に約10冊の手帳が売れました。

 

そして61家庭の
登録者として、350人以上の顔写真を撮影しました。

 

日本から持ってきたデジカメが大いに役立ち
嬉しい限りです。

 

さらに
最初はあまり興味を示さなかった人が
準備した資料の数字を聞いて、

 

つまり
 
7500Fのエコグラフィーが1500Fになるよ
歯を1本治療する4500Fが900Fになるよ

 

と聞いて、急に食いついて真剣になったときは

資料を作って良かったな、と
ラジオの時と同じプチ感動を味わいました。


今回、家庭訪問をして分かったのは、
多くの人が共済保険の存在を知らないということ。

 

入るか入らないかを選択する

 

そこまでたどり着いていないということが分かりました。

 

だから今回、
初めて聞いた共済保険という仕組みに興味を持つ人がいて、
加入するという選択をする人がいたんだと思います。

 

つまり、
ほとんど伸びなかった加入率の原因の一つは、
情報不足だったということです。

 


ただ、問題は他にもあります。

 

前述したステップ③です。

 

手帳を買ったあと、
会費をきちんと払えるのか。

 

もちろん会費を納めなければ
共済保健は利用できず医療費は全額負担です。

 

もし私が父親で、
奥さんと子ども3人を登録者にした場合、

自分を含めた5人分の会費を払わなければいけません。

 

3500F×5 = 17500F

 

です。

 

この金額を払い終わってはじめて
医療費が2割負担になります。

 

果たしてこれから彼らが会費を払うのか。

NOだった場合、
それは、払えないのか、払わないのか。
その原因は何か。

 

それが今後の大きな課題であり、
追いかけていかなければいけない情報だと思います。

 

ともあれ
今回の家庭訪問は共済保険の知名度を確実に上げたという意味で、
とてもよい活動だったと思っています。

 

すべては一緒に働いてくれたルレさんたちのおかげです。


手帳が売れる度に熱が入っていくルレさんたち。

 

最初の2日間しか担当じゃなかったのに
結局6日間すべての家庭訪問に参加したルレさん。

 

昼ごはんの時間を過ぎても
照りつける太陽の下を黙々と歩いて家を回り続けたルレさん。

 

最初はめんどくさそうだったのに
最後には1週間前に共済保険の存在を知ったとは思えないほど熱く語ってくれたルレさん。

 

みんな本当に頑張ってくれました。

 

会議に出るのはお昼が食べられるから、
研修を受けるのはお金がもらえるから、

 

それがセネガルの現状です。

 

でもやっぱり彼らも私たちと同じで、

 

誰かに評価されたり、
結果が数字で返ってくることで
モチベーションがぐっと上がるんだな、

 

と、とても嬉しい発見でした。

 

現地語がまだまだの私は、
家庭訪問ではおまけみたいな存在だったけれど

 

私がずっと一緒に回ることで
やる気が上がったり、

 

「いまの私の説明どうだった?」と聞かれて、
「アッファーハ!(Very good)」と答えると
すごく嬉しそうにしたり、

 

そんなルレさんたちを見ていて
おまけでも何でも居る意味があったなと感じることができました。

 

2018年の最後に気持ちが上がる活動ができて本当に良かった!

 

2019年もこんな風にちょっとでも誰かのチカラになれる活動ができたらいいなぁ。

 

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📷左手前の青い服、ファトゥは6日間わたしと一緒にすべての家庭訪問に付き合ってくれました。本当に感謝です。

フィムラFM無事終了。

前回の記事にも書きましたが、
最近、健康保険の加入促進に関わる活動をしています。

 

セネガルでは
日本のように省庁や企業に勤めている人はあまりいません。

 

マルシェ(市場)で野菜を売ったり、
タクシーの運転手をしたり、
家具の修理をしたりと

 

ほとんどは
物や何らかのサービスを提供して
顧客から直接収入を得ている
インフォーマルセクターの人々です。

 

それは保険料がお給料から天引きされるのは
ごく僅かの人だけで、

他の人は自分の意思で
保険に加入しなければいけないということです。

 

セネガルでは、地域ごとに

 

Mutuelle de sante(ミュチュエル・ドゥ・サンテ)

 

と呼ばれる共済保険があります。

 

その保険の加入者になり、
1年分の分担金を払うことで、
治療費が2割負担になります。

 

2割ってすごいですよね。

 

ただ、

病気にもなっていないのに
3500Fの分担金を自主的に前もって払う人が
果たしてどれだけいるのか。


ここがミュチュエルの難しいところです。

 

わたしの配属先の管轄には
地域ごとに5つのミュチュエルがあります。

 

わたしはその中でも加入率のあまりよくない
フィムラという隣町のミュチュエルで啓発活動をしてみることにしました。

 

正直いって自分の中では
健康保険の活動は長引くストライキの逃げ道のようなもので、

 

「どうしてもやってみたい」

 

そうゆう活動ではありません。

 

ただ、
配属先のトップも
ミュチュエルについては気になるようで、

「ミュチュエルの活動はしてる人いないから」

と応援してくれました。

 

だから
ちょっと動いてみようかなという気になったのです。

 

日本人の気質なのか
いざやり始めたら色々知りたくなって、

 

いろいろ調べているうちに
いまでは私をミュチュエルの活動をしている日本人と思っている人もいるみたいです。

 

運よく一緒に働いてくれるセネガル人も見つかり、
いまは啓発活動の真っ只中。

 

まずは啓発活動を2つやることにしました。

 

「ラジオ番組」

  と

「家庭訪問」

 

です。

 

フィムラには地元のラジオがあって
そこで30分の番組を2回放送しました。

 

1回目は、
ミュチュエルの代表、
実際にミュチュエルの管理をしている人、
フィムラの保健ポストの職員。

 

その3人にミュチュエルの利点を語ってもらいました。

 

私の考えでは
ラジオ番組は家庭訪問へ向けた準備のひとつです。

 

ラジオのためにミュチュエルの概要や利点、具体的な医療費負担額の差を書いた資料を作りました。

 

資料のなかには

 

子どもを一人生むのに産前検診から出産、産後検診まで、加入者と非加入者ではいくらの違いがあるのか。

 

もし事故にあって州立病院に運ばれたとき、
入院しなきゃいけなくなったとき、加入者と非加入者ではいくらの違いがあるのか。
(ちなみに骨折はジョフィオールの保健センターでは見ることができません)

 

医療費が高くて我慢している
虫歯を加入者であればいくらで治療することができるのか。

 

などなど、
いくつか例をあげて具体的な金額を盛り込みました。

 

この資料を
家庭訪問の際に役立てようという狙いです。

 

だから実はラジオは二の次。

 

私のミュチュエルの活動のメインは
家庭訪問にあります。

 

だって、家庭訪問すれば加入する人の声も
加入しない人の声も聞くことができるから。

 

ラジオは勢いづけみたいなものでした。

でも、

 

1回目のラジオ放送の際、
私がフランス語で作った資料を、漏れのないように一生懸命みながら、ウォロフ語に訳して
話すセネガル人の姿を見たら

「ラジオやってよかったな」

と思いました。


そして、今日2回目の放送を終えました。
(ちなみにセネガルのラジオは基本的に生放送です)

 

今日はミュチュエルの代表の他に
すでに加入していて治療でミュチュエルを利用したことのある2人をゲストに呼びました。

彼らの実体験を話してもらうためです。

 

タクシーの運転手さんと
溶接職人。

 

30分の枠のはずが
小一時間、熱心に語り続けてくれました。

 

私の役は、
初めと終わりにほんの少し喋るだけ、

 

さらに私の希望ですべて現地語で話してもらったので、何を言ってるのか半分どころかほとんど分からなかったけど、

 

とにかく3人とも、一生懸命話してくれたのは伝わりました。 

 

ラジオに出られて嬉しそうだったのも伝わってきました。

 

どれだけの人が地元のラジオを聞いているのか、
一方的な情報提供にどれだけの人が反応を示すのか、

さっぱりわかりません。

 

大して反応はないだろうというのが
私の予想です。

 

でもとにかく、
このラジオのおかげで、こちら側のモチベーションが上がったことは確かです。

 

だから2回を終えた今は
ラジオやってみて良かったな、と思っています。

 

さて、これから年末にかけては家庭訪問です!

 

みんながどんな反応を示すのか
今から楽しみ。

 

2018年も残すところあとわずか。


いい形で新年を迎えられるように
頑張りたいな、と思います。


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📷ほんのちょっとだけだけど、セネガルで初のラジオ出演。いい思い出になりました。

久々の村。

11月には雨期が終わっていたのに

 

「他の活動もあるから」

 

「どうせ行っても保健ポストはストライキだから」

 

と、

忙しくもないのに自分に言い訳をして
行けていなかった村。

 

6月の終わり、雨期が始まる前に、
5回くらい足を運んだ村。

 

わたしが住む場所から

馬が引くシャレットで1時間弱の村。

 

初めの頃は、

 

「せっかく啓発活動をするなら、医療へのアクセスが悪いところがいい!」

 

そんな意気込みでいたけれど、

 

シャレットに揺られてたどり着いたらストライキ。

 

車から船に乗り換えて、さらにシャレットに乗って着いたらストライキ。

 

出発前に電話で確認したのに
保健ポストの人は話し合い手が欲しいのか

 

「待ってるね!」

 

しか言わない。

 

そんな繰り返しで遠くに足を運ぶのをやめてしまった自分。

 

いまは車と徒歩で通える場所で
健康保険の加入促進の活動を
セネガル人と一緒にやっています。


来週からは各地域の啓発担当者と一緒に家庭訪問も始まる予定です。

 

セネガルの未来を考えたとき、
健康保険はとても大切。

 

もちろん制度そのものも大事だし、

 

リスクに備える

 

という考えを持つことが

彼らにとっては新しいことであり、
いまはそれを少しずつ受け入れていく時期なんだと思います。

 

でも何だか物足りない。

 

この物足りなさはなんなんだろう。

 

協力隊のコミュニティ開発って、
もっと皆と一緒に笑ったり、悩んだり、ときにはケンカしたりして過ごすんだと思っていたのに。

 

わたしがいま関わっているのは
配属先の職員だったり、
セネガルのNGOの人だったり、
もともと医療に関心のある人ばかり。

 

でも、ほんとは
全然医療の知識がない人と一緒に

 

「元気でいること」

 

その意味を考えてみたいんだよなぁ。


もうすぐ折り返しを迎えるいま、
そんなことを思いました。

 

だからこのたび決意を新たに
久しぶりに村へ行ってきました。

 

同じような景色が続く懐かしの風景をみながら、
シャレットに揺られて約1時間。

 

無事に村に到着です。

 

まずは保健ポストに挨拶を。

 

忘れられているかと思ったのに
わたしを見た瞬間にすぐに

「ジュマー!」

と名前を呼んでくれたハディに感激。

 

助産師のクレマンスも

「わー!ジュマがきた!」

と喜んでくれました。

 

スージャンと呼ばれるこの地域には

保健ポストのある

 

スージャン・ディムレ

 

を中心に

 

スージャン・○○○

 

という村が10こ弱あります。


この日はシャレットの運転手イブの協力もあり、
スージャン・ディムレの近くにある4つの村を訪問し、

シェフ・ドゥ・ヴィラージュ(村長さん)に
挨拶してきました。

 

スージャン・ワガンは
ディムレから一番近い村。
ワガンとディムレの間には
日本の支援で建てられ、この11月に開校したばかりの中学校があります。

 

スージャン・ルルは
カトリックの小さな村。
村の入り口には小さな教会と白い十字架の立った墓地があります。

 

スージャン・ダリでは
外国人が珍しいのか、
シャレットごと30人くらいの人に取り囲まれました。

 

スージャン・ジョインの村長さんは
毎週日曜日にある集会に来れば
村のみんなに会えるから、そこで話をしてみたら?と提案してくれました。

 

スージャンの人の暖かさに、

あぁ、やっぱり村っていいな

そう思いました。

 

ジョフィオールの町の人が冷たいわけでもなく、

 

現地語がまだまだ分からない私にとっては、
むしろコミュニケーションは町の方がとりやすい、

 

でも、

なぜか心が落ち着く感じのする村。

 

とても不思議な感覚でした。


残りの1年、
この村に通って、村の人たちと一緒に

 

「元気でいること」

 

その意味を考えてみたいなと思いました。


医療とか薬とか注射とか保険とか疾病予防とか

そうゆう難しいことから離れて、

 

私たちに元気をくれるものって何だろう?

 

元気だとどんなことができるだろう?

 

ただ、そんな単純なことを
一緒に考えてみたいなと思います。

 

そこにはきっと、
「医療・保健」というと
いつも体の健康のことばかりが浮かんでしまう自分への密かな抵抗があるんだと思います。

 

「元気」という言葉には
体の健康だけじゃなくて心の健康も含まれているから。

 

だからもしかしたら
この村の人は、ある意味では私よりも健康なのかもしれない。

 

わたしが彼らの道に分岐点をつくるように、
彼らがわたしの道に分岐点をつくってくれる。

 

そんな風に思えました。

 

まだまだ知らないこの村のことを
少しずつ知っていけたらいいなぁ。


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📷お昼ごはんの時間に訪れたスージャン・ルルのミシェル宅。急に来た外国人を快く受け入れてくれて、「泊まっていけばいいのに」と何度も繰り返していました。電気の通っていない村で小さなソーラーパネルを日向に移しては充電しながらラジオを聞いていたのが印象的。

PlanとAction。

セネガルに来て最初のころ、
配属先の会議に出たり、

管轄の保健ポストを回るなかで、

 

Pland'action(プランダクション)

と呼ばれる活動計画が作られていることを知って

 

「おー、結構しっかりしてるんだ」

 

と思ったわたし。

 

失礼を承知で言わせてもらうと、
自分が隊員として活動する場所には
計画をたてるなんて考えはないものと思っていました。

 

ところが、
きっと今日までのいろいろな支援のおかげもあり、
活動計画を作ることは
彼らの中ではもう当たり前のことでした。

 

でも、問題はここから。

 

当時関心していた私が
時を経るにつれ分かってきたこと。

 

計画が全然実現されていないじゃないか。

 

そして毎回同じような計画を繰り返しているじゃないか。

 

そう、彼らの中では
活動計画を作ることが一つのゴールになってしまっているのです。

 

本来、活動計画の作成とは
本当の目標(ゴール)により確実にたどり着くためのステップであるはずなのに。

 

計画が出来上がると、
もうそれで満足、という感じが伝わってきます。

 

だからたとえ計画どおりに行かなくても

 

「まぁ、○○だったから仕方ない」

 

というスタンスです。

 

そして振り返らない。

 

だから、

その○○を考慮できなかったことを
次の活動計画に活かすこともない。

 

ただひたすら
いつかその○○が起こらない日を待つだけ。

 

ちょっと極端かもしれませんが、
私にはこんな感じに見えます。

 

最近、一緒に活動しているセネガル人に

「半年間の活動計画をつくろう」

と言われ、私が作りました。

 

彼が「12月にやろう」と提案してきたことを
私は12月、さらに1月を準備期間として、
2月に実行する計画にしました。


きっと彼はわたしが作った計画を見て

 

「なんでこんなに遅いの!?」

 

と言うんだろうと思っていました。


が、彼が言ったのは

 

「いいじゃん!ばっちり!」

 

そして最後に

 

「計画どおりには行かないかもしれないけど、まぁ少しずつやろうよ」

 

と。

 

言い返そうと思って
胸の中に押し込んだ想い。

 

私はあなたに計画立てるとは本来どうゆうことなのか見せたくて、
この計画を実現するのに
必要な時間を考えて作ったんだよ。
なのに最初から、しかもあなたの言っていた日程よりも2か月も伸ばした日程をみて、
計画どおりに進まないのが当たり前みたいな言い方しないでよ。

 

彼にとっては活動計画の中身なんてどうでもよくて、
とにかく半年間の活動計画を立てたということが大切なんだということがよく分かりました。

 

私だってこの国で計画通り物事を進めるのが
どんなに難しいことか分かっています。

 

すべてが計画通りに進むなんて
ないに等しいことも。

 

でも、計画を立てて、それに沿って進める努力をすることを忘れてはいけないと思うんです。

 

努力をした結果、
計画通りに行かなかったら、
きっと悔しくって、

 

「次はもっとこうしよう!」

 

って自然と思えるはず。

 

それはつまり「振り返る」ということであり、
「成長する」ということなんだと思います。

 

努力があるから悔しさがあって、
悔しさがあるから成長できる。

 

だから、初めから努力することをやめたら
いつまでたっても同じ場所で
くるくる回っているだけ。

 

そんな風に思います。

 

いまは全然伝えられていないけれど、
いつか誰かと一緒に

 

努力して、悔しさを経て成長して、
そして最後に本当の目標を達成する。

 

そんな瞬間を味わえたらいいな、と思います。

 

まだまだ道のりは遠いけど、
伝える術もまだ持ち合わせてないけど、

 

この伝えられない悔しさをバネに、
ここで少し成長できたらいいな。

 

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📷凹んだときは近所のおうちの動物たちのお世話をするのが一番のストレス発散法。動物たちの目が「どうしたの?大丈夫?」って言ってるみたいで、一人でぶつぶつ馬やロバに話しかけています。

一途への憧れ。

3日間のお休みと週末を利用して、
他の隊員の活動を見に行ってきました。

 

まずは首都ダカールで
同期の働く障がい児向けの学校を見学。

 

8月にサマースクールのイベントを手伝った場所なので再訪問です。

 

でも、前回はバカンス中、
今回は、バカンス開けなので
学校の様子も随分違いました。 

 

11時からの小休憩(日本だと業間休み?)
に合わせて学校につくと
入口では子どもたちがワイワイ!

 

サマースクールに来ていた生徒たちの中には
私を覚えてくれていた子がいて

 

「俺のこと覚えてる?」

 

と言われたり、

 

走ってきて抱きつかれたり

すっごく嬉しかった。

 

今回、子どもたちが彼ら自身で遊ぶ姿を見て
考えさせられたことがあります。

 

中庭のスペースを使ってサッカーをしている男の子たち。

 

その中には
元気に走り回る子もいれば
松葉杖がないと歩けない子もいる。

 

でもびっくりするくらい
みんな思いっきりボールを蹴っていました。

 

日本だったら
足が自由に動かせる子と不自由な子が
一緒にサッカーをして遊ぶこと自体
なかなかないんじゃないかと思います。

 

さらに、手加減もなにもなく
自分の思うままにボールを蹴る

 

そんなこと想像もできませんでした。

 

でも、思いっきり蹴ったボールが
あらぬ方向へ飛んでいったときも

 

松葉杖の子にきたボールが早すぎて
足が届かなくて空振りしちゃったときも

 

みんな楽しそうだった。


あの子は足が悪いから
少し弱くボールを蹴った方がいいかな。

 

届かないようなボールを出したら
あの子に悪いかな。

 

私が考えそうなこと、

 

そんなこと、

 

ぜーんぶムダなのかもしれない。

 

って、

みんなの笑顔をみていたら
ハッとさせられました。

 

日本にいた時の私は

必要か不要か分からない気遣いをして

 

知らず知らずのうちに

 

相手を思いやる自分が
思いやられる相手よりも一段上にいるような

そんな感覚で生きていたのかな、

 

となんだかちょっと
今までの自分にもやもやしました。


さてさて、
そんなこんなでダカールの次に向かったのは、
セネガル第2の都市、ティエス。

 

ティエスはダカールからも近くて
日本でいうと横浜的ポディションの街です。

 

田舎任地の私からみると大都会です。

 

その街でレスリングの普及活動をしている隊員が
セネガルで初めてのレスリングの大会を開催しました。

 

出場選手は彼がいつも教えている
レスリング教室の生徒たち。

 

階級ごとのトーナメント戦です。

 

前日に教えてもらった大まかなルールを頭にいれて
人生初のレスリング観戦です。

 

とても大きな大会で
セネガルのお偉いさんやテレビの取材も来ていました。

 

この日の実現のために
彼が辿ってきた道のりを想像したら、

その行動力と人並みならぬ努力に脱帽です。

 

大会が終わったあと
彼の見せた達成感に溢れた表情が
とっても印象的です。

 

いつかセネガルから
レスリングのオリンピック選手が出るとしたら
今回私が試合を観た子どもの誰かかもしれない。

 

そんなワクワクまで貰いました!


セネガルには日本の相撲やレスリングに似た
リュットと呼ばれるスポーツがあります。

 

12月からジョフィオールでも
リュットの大会が始まるそうですが
生リュットはまだ未経験の私。

 

でもテレビで試合が放送されるくらい
サッカーに負けず劣らず人気の
国民的スポーツです。

 

そんなリュットがあるセネガルで、
いつかレスリングで世界を目指す選手が現れることを願うばかりです。


今回の旅、
2人の隊員の活動を訪問して思ったのは

 

何かを一途に続けている人は凄いな

 

ということ。

 

ダカールの彼女は
障害児教育に長年携わっているこの道のプロ。

 

そしてティエスの彼は
まだ若いながらも、その人生の多くの時間をレスリングと向き合って生きてきた。

 

私とはまったく違うタイプです。

 

いろんなことに手を出して
いろんなことを経験してみたい私は

何か一つのものを突き詰めるのが苦手です。

 

だからそうゆう道を生きている人をみると
単純に、

 

凄いな、うらやましいな

 

そう思います。

 

きっと私と逆のタイプの人の中には、
私みたいに色んな経験をしてきたタイプを
うらやましいなと思う人もいるんだろうな、
と思います。

 

どっちの方がいいとか
そうゆうんじゃなくて

 

ただただ、刺激になります。

 

そうか、こうゆう生き方もあるんだ。

 

一つのことをトコトンやると
こんな景色をみられるかもしれないんだ。

 

そんな風に思います。

 

なんだか言葉ではうまく伝えられないけれど、
自分が自分に見せてあげられないものを
見せてもらった気がします。 

 

とにかく学ぶことがたくさんありました。

 

残り1年2か月で
もっともっと色んな景色をみて

 

視野をひろーく、心もひろーく、

 

できたらいいなぁ。f:id:hassy-juma:20181117073910j:image

📷倒されないように必死に掴み合う姿に、客席まで届くくらい体から溢れるパワーを感じました。

 

 

 

 

誰のためのカルネ。

カルネはフランス語で手帳のこと。

 

ちょうど2年前の今ごろ
協力隊の募集要項から
このジョフィオールの仕事を選んだとき、

 

活動の内容の最初の項目に

 

「母子手帳の普及」

 

と書いてありました。


でもやっぱり
時の流れとともに、状況は変わるもの。

 

実際にこうしてジョフィオールに来てみると、
ほとんどのお母さんが母子手帳を持っています。

 

妊娠が分かったときに病院から手帳が配られて、産前・後検診と使用して、
その後も母子手帳を持ってこないと無料の予防接種が打てません。

 

最後の予防接種は15か月、
赤ちゃんが1歳3か月になったときです。

 

初めて予防接種に立ち会ったときは
母子手帳の記入の仕方もよく分からず、
配属先の人に教えてもらいながら
予防接種の記録をつけていました。

 

予防接種を受けたときに
次の予防接種の日付を書き込む欄があって
そこがなかなか重要です。

 

日付を間違えて予防接種にきて
1時間くらい待ったあげく、

 

「今日は打てないから来週ね」

 

と言われているお母さんたちもいます。

 

そんなとき手帳にかかれた日付を見てみると
"月"のところだけフランス語で書かれていたりします。

 

全部数字で書いてあれば、
正しい日付がわかったかもしれないな
と思ってしまいます。

 

それに加えて気がついたのは、
使われていないページの多さ。

 

使われているのは検診と予防接種のページだけ。

 

子どもの名前が記入されていない手帳も
よく見かけます。

 

セネガルでは
生まれて1週間後にゲンテ(洗礼)のお祝いがあって、そこで子どもに名前をつけます。

 

だから手帳に名前を書くのは
だいたいは最初の予防接種のとき。

 

予防接種の接種者については
国に提出する書類があるから

生後1週間たっている場合は
予防接種の際に
必ず子どもの名前を聞いています。

 

なのに、

書類には書いても手帳には書かない。

 

毎月の検診で赤ちゃんの
体重と身長を測っても
病院側の記録にしか書かない。

 

だから母子手帳の
体重と身長のページは白紙です。

 

ふと、

 

母子手帳って誰のためにあるんだろ?

 

と考えていました。


きっと答えは一つじゃなくて

 

お母さんのためであり、
子どものためであり、
そして医療を提供する人のためである。

 

でも私のいる場所では
医療を提供する人のために使われている

そんな感じがします。

 

セネガルに来る前に
母からもらった私の母子手帳には、

 

母が私を身ごもってからの状況
産まれたときの様子
検診ごとの成長の様子
予防接種の接種状況

 

など、

たくさんの情報が載っていました。

 

最初のページに挟み込んであった

 

「日本脳炎の注射、熱のため受けられず。必ず6年生で打つこと!!」

 

という古いメモをみたときは

大切に育ててくれたんだなぁ、と
ちょっとじんとしました。

 

いま、同じようにして
セネガルのお母さんが
子どもに手帳を渡すことになったら

 

子どもの名前も書いていない
成長の記録もない
空欄だらけの手帳を渡すことになります。

 

正直なところ
手帳の中身なんて気にしていないお母さんがほとんどです。

 

みんなが読み書きが出来るわけじゃないし。

 

でも
ほとんどのお母さんが、
自分の子どもの成長を気にしています。

 

ある時、
保健ポストの予防接種と身体測定を
手伝いに言ったとき

 

紙切れに書かれた体重と身長を見せて

 

「うちの子はどう?健康に育ってる?」

 

と聞いてきたお母さんがいました。

 

その紙切れの数字は
保健ポストの記録表に転記されるだけで
母子手帳に書かれることはありません。

 

でもこのお母さんは
私の母と同じように
子どもの成長を気にかけています。

 

だから
その体重と身長を母子手帳に書くことにしました。

 

小さすぎて「活動」と呼べるようなものじゃないかもしれないけど、

お母さんたちの気持ちが
手帳の中に少しでも多く残るようにしたいなと思っています。
 
セネガルにいると、

 

「何のため」「誰のため」 

 

そんな風に考える機会が多いような気がします。

 

よくも悪くも。

 

気がつけば10か月が経とうとしている
セネガルでの日々。

 

私は

何のため、誰のために 

この10か月を過ごして、

 

何のため、誰のために

残りの1年2か月を過ごしていくのかな。

 


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📷紙切れから母子手帳に書き写した数字をみながら、看護師隊員と一緒に作成した成長曲線グラフを使って、お母さんたちに直接「あなたの子どもは今このゾーンだよ」と説明しています。